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Q.父親は失踪。残された母親と妹そして弟の面倒を見なければいけないとしたら、あなたはどうしますか。

自らの夢を叶えるため、単身上京。
先輩社員にしごかれながらも目標を立て、夢に一歩一歩近づいている矢先に郷里の母親から連絡が……。
それは、尊敬していた父親の失踪でした。
学生だった妹と弟のために「サラリーマンになって欲しい」と言われたそうです。
自分の夢をあきらめて別の道を進むとしたら、あなたならどうしますか。

A.それでも自分の信念を貫けば、おのずと道は拓ける。

残された家族がいると言うのに、一見自分勝手で非情なようにも思えます。
ですが、夢を叶えるために自分を追い込んで見事、成功させた人がいます。
スイーツの世界にこの人あり、とその名を轟かせたのがパティシエ「辻口 博啓(つじぐち ひろのぶ)」さんです。

辻口さんは、昭和42年3月に石川県七尾市で生まれました。
実家は、祖父の辻口良吉さんが始めた和菓子屋「紅屋」でお父さんは二代目として店を切り盛りしていました。
いわゆる「ぼんぼん」でのんびりと育ったそうです。

<辻口 博啓さんの略歴>
  • 2005(H.17):38才。「コンフィチュール・アッシュ」「マリアージュ・ドゥ・ファリーヌ」(深沢)オープン
  • 2004(H.16):37才。「和楽紅屋」(二子玉川)オープン
  • 2003(H.15):36才。「ル・ショコラ・ドゥ・アッシュ」オープン(六本木ヒルズ)オープン。
  • 2002(H.14):35才。「自由が丘ロール屋」(自由が丘)オープン。「ヘーゼルナッツ国際大会」総合優勝。
  • 2001(H.13):34才。「モンサンクレール」オーナーパティシエに。
  • 2000(H.12):33才。ガストロノミックの会モンタニエよりシュバリエを受賞。料理オリンピック イタリア代表としてドイツに招かれる。これによりイタリア鉄人協会会員となる。
  • 1998(H.10):31才。「モンサンクレール」(自由が丘)オープン。シェフパティシエに。「料理の鉄人」にてパティシエとして初めて鉄人を破り優勝。
  • 1997(H.09):30才。「クープ・ド・モンド(ワールドカップ)」個人優勝。開店準備の為、半年間、南仏の「パティスリー・ベルタン」で修行。
  • 1996(H.08):29才。「ジャンマリーシブナレル杯」3位受賞。「ソペクサ(仏大使館主催仏食材を使ったプロの為の仏菓子コンクール)」優勝
  • 1995(H.07):28才。「クープ・ド・フランス インターナショナル杯」優勝
  • 1994(H.06):27才。「コンクール・シャルル・プルースト」銀メダル受賞
  • 1993(H.05):26才。「東日本洋菓子コンクール マジパン部門」優勝。フランス渡航。
  • 1992(H.04):25才。「50周年記念全国洋菓子コンクール」総合優勝。日本の頂点に。
  • 1990(H.02):23才。「全国洋菓子技術コンクール」にて最年少で優勝
  • 1985(S.60):洋菓子職人になるため上京するも3ヵ月後に「紅屋」倒産。
  • 1982(S.57):高校入学。空手部に入部。高校時代は生徒会長も努めた。父が保証人となっていた知人が失踪。ギャンブルに溺れるようになる。
  • 1979(S.54):中学校入学。テニス部で活躍
  • 1973(S.48):小学校入学。祖父他界。洋菓子職人になることに心を決める
  • 1967(S.42):3月24日「紅屋」三代目として父武吉の長男として誕生。祖父は「紅屋」の創業者で良吉。

<おじいちゃん子の「ぼんぼん」育ち>

辻口さんは、お父さんが二代目「紅屋」店主として働いていたため、おじいさんと一緒に過ごすことが多かったそうです。
いわゆる「おじいちゃん子」ですね。
家は木造だったため、階下の店で何をしているか分かりました。
寝ていても五感が自然と鋭敏になっているのでしょう、耳には音や振動が、鼻にはお菓子の香りが。
饅頭を蒸したりする蒸気が家にこもって、お父さんが何の工程(和菓子つくりの)をしているのか自然に分かったそうです。

「どら焼き」は、最初から一気に焼かないそうです。
「どら焼き」の生地を焼く鉄板の熱が均一にいきわたっていないため、温度にムラがあるのです。
そんな状態で、商品となる本番を焼くと焦げて失敗するのです。
そこで、店では必ず試し焼きをします。
そうやって、加減をみながら焼いていくのです。

辻口さんは、上で寝ながら体中でお父さんの仕事を感じて、頃合を計って階下へ降りるのだそうです。
で、見事、試し焼きの「どら焼き」をゲット。
親が働く姿を見るのが好きだったそうです。
その頃から、漠然と「紅屋」の三代目を継ぐことは決意されていたようです。

辻口さんの将来を決める衝撃的な出来事は、小学校の友達の誕生会に呼ばれた時に起こりました。
デザートに出された「ショート・ケーキ」でした。
実は、バタークリームを使ったケーキはそれまでにも食べたことはあったそうです。
ですが、生クリームを使ったケーキはスポンジとの相性も良く、気がついたら皿まで舐めていたそうです。
それを見た友達のお母さんが「辻口君のおうちにはこんなおいしいお菓子ないでしょう?」と言ったそうです。

「図星でね。『ない』と思った」と述懐されいました。
辻口さんは生来の負けず嫌いでした。
「将来は洋菓子職人になる」と誓ったそうです。

小学生の時に大好きだったおじいさんが亡くなります。
辻口さんは、おじいさんの骨を握り締めたそうです。
その骨の温かさから何かのメッセージを受け取ったと言います。

<暗転>

「ぼんぼん」で育った辻口さんが中学に入学したあたりから、家はどんどん傾いていったのが分かりました。
お父さんの武吉さんが、保証人になっていた知人の借金を肩代わりすることになったからです。
それまで、仕事一途だったお父さんがギャンブルに溺れるようになりました。
親が働く姿を見て育った辻口さんです。
中学ではテニス部をやりながら極真空手、高校では応援団長と生徒会長をしていたほどの硬派です。
父親の姿を見て、蹴り飛ばしたこともあるそうです。
その後、興奮と悔しさで血が上り鼻血が出て止まらなかったそうです。

高校を卒業して上京することになりました。
菓子屋になるのだからと、勉強は特にせずスポーツや部活に明け暮れていたわけです。
大学や製菓学校へ行こうにも学資がありません。
特に強みもないまま、東京に出て飛び入りでお店で働かせてもらい、先輩の仕事を目で盗みながら仕事を覚えて行ったそうです。
睡眠は4時間〜5時間は当たりまえ。
体が大きかったため、肉体的なシゴキはなかったそうですが、口をきいてくれないなどの精神的なあたりはあったようです。

初任給は45,000円。
寮の食費が15,000円で1万円を貯金。
あとは休みの日に有名店のお菓子屋さんの食べ歩きをして、時には材料に何を使っているのかゴミ箱を漁ることもあったそうです。

そんな生活をして3ヶ月……。
郷里のお母さんから一本の電話がありました。
「すぐに戻って欲しい」
借金の保証人になっていたお父さんが失踪したのでした。
家には学生の妹と弟。
「サラリーマンになって欲しい」
お母さんは、地元の会社で伝手を頼って会社に入る段取りまでつけていたのでした。
あとは、会社へ行って試験を受けるだけだったのです。

辻口さんはお母さんに言いました。
「3年で1人前になる」と。
辻口さんは、ここで子供の頃からの夢だったケーキ職人になることを諦めて、サラリーマンになったら一生後悔すると思ったそうです。
こうして、家族の理解を得て再び上京したのです。

<徒手空拳>

地元でサラリーマンになっていれば、月給は120,000円だったそうです。
父の失踪、残された家族の生活。
自分が夢を捨てれば、とりあえず生活はなんとかなります。
ですが、ここで辻口さんは踏ん張りました。
おじいちゃんから受け取ったメッセージと負けん気が、背水の陣を敷いたのでしょう。

家族の生活を省みなくても、東京で働けたのは単に運が良かっただけでしょうか。
私は違うと思うのです。
辻口さんの悲壮なまでの決意が、家族の気持ちを動かしたのだと思います。
私は辻口さん家族の生活がどうだったのかは分かりません。
ですが、絶望的なまでの状況だったとしても、覚悟を決めた兄が「3年で……」と言えば、血を分けた家族ならば「お兄さんがそこまで言うのであれば、こっちも3年間がんばろう」となるのではないでしょうか。
未来永劫、いつ終わるとも知れないどん底はヤル気もなくします。
ですが、期限を切ることによって自分を追い込めます。
家族も、数年先という期間であれば忍耐も続くものです。

辻口さんは考えました。
私が言うと失礼ですが、言わば「金ナシ」「コネなし」「学ナシ」「財産ナシ」状態です。
認めてもらうにはどうしたら良いか。
「コンクールで優勝するしかない」
19才から挑戦して、22才までに4回落選しています。
けれども「実力の世界だから、挑戦し続ければ必ず勝てると思いました」と常に前向きに生きていらっしゃいます。
前向きと言うよりも、信念とかプライドに通ずるものを私は感じました。

<夢をつかむ>

そうして、とうとう平成2年「全国洋菓子技術コンクール」にて最年少で優勝するのです。
略歴を見て頂ければお分かりと思いますが、辻口さんは毎年のように何かの賞を受賞されています。
どの世界でもそうですが、1度きりのグランプリではダメなのです。
通過点にすぎないのです。
ただ一度の優勝では「運が良かっただけ」と業界関係者は思うのです。
「運も実力のうち」と言うのは、成功した者だけが口にすることができる述懐なのです。

辻口さんがコンクールの出場を決意したのは「腕に技術があっても、認められなくてはだめだ」と悟ったからだそうです。
辻口さんが19才だった当時のコンクールは、食べられるケーキではあるけれども「見かけ」だけを競ったものでした。
でも、そうではなくて食べて美味しい、香りや食感のを楽しむ喜びを人に与えたかったそうです。
だから早く起業したかったそうです。
「大きな店よりも、小さくても自分の想いが入った店を持ちたい」と。

平成10年、自由が丘に「モンサンクレール」をオープンさせました。
けれどもお客さんは入りません。
日本での知名度はまったくなかったからです。
半年間で2,000万円ほどの材料費がかかったケーキを捨てたそうです。

転機が訪れたのは、テレビ番組「料理の鉄人」への出場でした。
プロデューサーは言ったそうです。
「鉄人には勝てない」と。
こうなると悔しい。
負けん気魂が起き上がります。

ビデオを見たりしていろいろ調べてみると分かったことがありました。
調理が始まると、鉄人は豪快に炎を上げたりして目立つ。
挑戦者はひたすら、食材の計量をしている。
一定の味を出すための計量は必要ですが、戦いの場で計量していては時間もかかりますし、何よりも地味です。
番組として画にならないのです。
挑戦者がようやく調理にかかった頃には、鉄人は2品くらい作り上げていたそうです。

辻口さんは、挑戦するにあたり目検で計量したそうです。
計量器を使うのではなく、感覚で調理していくのです。
見事、鉄人を破って優勝しました。
それからです「モンサンクレール」に長蛇の列ができるようになったのは。

名前が売れただけでは、お客さんにすぐに飽きられてしまいます。
辻口さんは、これまで数々のコンクールに出場することで、いつも新しい挑戦をして認められてきた人です。
知名度に負けない以上の技量が備わっていたのです。
満を持してのブレイクと言ったところでしょうか。

辻口さんはおっしゃいます、
「ボクたちはケーキを売っているんじゃないんだ。夢を売っているんだ」と。


あなたは、夢を持っていますか。
夢を叶える努力をしていますか。


<辻口 博啓 語録>
  • もともと器用なわけでも、センスがあったわけでもありません。お菓子を学校で学んだことすらありません。それでも目標を立て、そこに生活のすべてを注げば、こうして夢はかなうのです。
  • 僕は、思ったことを実現するには、 才能よりも、モチベーションを維持する力を持てるかどうかの方が大切だと思うんです。 世の中には夢をあきらめる人もいるけれど、僕はあきらめるということは、無意味だと思う。
  • 日本一になろうと思っていてもなれないわけですよ。世界を見なければ、日本一にはなれない。世界中の情報をかき集めて、どこで誰が何をやっているのかと見ているうちに、自然と日本一になり、世界の道が見えはじめてきた。

この記事は2005年(平成17年)4月24日(日)に放送された「いつ見ても波瀾万丈」を参考に書きました。


<参考サイト>

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